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自由とは制約そのものである~どんな職場をつくりたいのか~

執筆者の写真: 寺尾卓也寺尾卓也



自由な環境か、

制約された環境か、


どちらかを選ぶとすれば、あなたはどうしますか?


前者を選ぶひとが圧倒的に多いのではないでしょうか。

僕もそうです。

世界人権宣言には、「すべての人は生まれながらにして自由」という文言があります。学校でもそのように教えられるから、僕たちは自由というものが正しいものであり、当然与えられた権利であると思っています。


では、「自由」とはどのような状態なのでしょうか。


たとえば、いま僕が10万円のリールが欲しいとして(最近僕は釣りにハマっています)、残念ながらそのお金が自分の口座にはなかったとします。

でも、僕は自由なのだから、10万円のリールを手にする権利がある。だから、目の前にいるAさんから10万円を奪い、そのお金で欲しかったリールを買う。これは自由と言えるのでしょうか。


厳密にいえば、自由とはそういうものです。

「自らをもって由となす」by福沢諭吉。私の考えが、理由。それが自由。


でも、これに納得するひとはいないと思います。

なぜでしょうか。自由って、自分のやりたいようにできる状態なのに?

答えは明確です。

それは確かに自由であるけれども、同時にAさんの自由を奪っているからです。

Aさんが10万円を奪われることに積極的に賛成であれば、そもそも奪わなくてもAさんがリールを買ってくれるでしょう。でも、そうじゃないから奪う必要がでてきます。

Aさんはその10万円で欲しかったサッカーシャツを買う予定だったのです(知らんけど)。

10万円を奪う自由が、Aさんのサッカーシャツを買う自由を打ち消してしまいました。


たしかに、自分ひとりの自由を考えれば、それはまさしく何をやっても良い状態です。

しかし、その場にいる人が2人以上になった瞬間、自由と自由のあいだに必要になるものが生まれます。


それが制約(規律・ルール)です。


「何をやっても良いけれど、他人から奪うことは止めましょう」

という制約をつくれば、僕もAさんも、お互いを傷つけない範囲で自由を謳歌することができます。

国の法律も、鬱陶しい校則も、サッカーのルールも、会社の規則も、基本的にはその考えから生まれたものです。先人たちがそれこそ膨大な時間をかけて、ひとり一人が互いを傷つけずに自由を享受するためにつくったもの、それが制約(規律・ルール)の本質です(そうでないものもあるとは思います)。


つまり、自由とは制約のそのものなのです。


でも、有難くも悲しいことに、僕たちが生まれたときにはそれらの制約はほとんど完璧に近いほど整備されていました。そして僕らはときに、過程を理解しないまま結果を見せられると、それを「押し付けられた」と感じてしまいます。

「他人を殴ってはいけない」という法律は何となく理解できても、「高速道路を100キロ以上で運転してはいけない」というルールには難色を示す人が出てきます。

「おれは大丈夫だ」、「おれはそれには反対だ」、という意見が出てくるのは、その制約が成立する過程を理解していないからに他なりません。140キロで暴走する車に撥ねられ我が子を亡くした親が、「高速道路を100キロ以上で運転してはいけない」というルールに反対するはずがありません。


話が少し大きくなりすぎました。

しかし、私たちが「自由とは制約そのものである」という事実を本質的に理解するためには、その制約が自分がこの社会(国であれ会社であれ)にくる以前につくられたものでも、そのあとにできたものであっても、それらを「自らの意志と責任で納得する」ということが不可欠です。


自由な環境か、

制約された環境か、

どちらかを選ぶとすれば、僕は前者を選びます。


休みたいときは休みたい。

思いきり仕事に打ち込みたいときはそうしたい。

2時間かかる仕事を1時間で終わらせたいならそうしたい。

じっくり野菜を観たいときにはあえて時間をかけたい。


自由でいたいから、職場においてもできる限りルールはつくらない。

でもそれは同時に、自らに厳しい制約をかけることでもあるのです。

しかしそれを、「押し付けられた制約」だと感じた瞬間に、自由は自らの手をすり抜けていきます。

大きな組織ならば明文化された規則も必要かもしれません。

でも、たかだか両手の指で数えられる人数のチームであれば、ひとり一人が顔の見える互いのメンバーの自由のために、そしてもちろん自分自身の自由のために、自らの意志で自らの行動を律することは可能なのではないでしょうか。

僕はそれは可能だと信じたいし、自分がつくる組織はそうで在りたいと思います。


僕自身が社会に与えられるものなんてたかが知れていると思います。

この農場で働くことが、その人の人生のすべてを占めるはずがないこともわかっています。

でも、少なくとも、自分以外のひとの、それも人生の大きな部分を占める仕事という場をつくるに於いては、自由というものを誰かから与えられるものではなく、自らの手でつくりあげていくものなのだということを、理解し実践できる場にしたい。


それが、僕の職場へのいちばんの想いです。



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